私は、本当に小さな世界にいたのだと思い知る。
小さな屋根裏での、小さな幸せ。
私に確固たる自我があっても羽ばたけるほどの自由はなく、
心を護るため、多くを諦めることにも慣れてきた。
それでも私は生きていると思っていた。
生きていると、信じていた。
漆黒の静寂に冷える夜。
部屋着のまま外に飛び出した身体に、冬の風が襲いくる。
まるで死神の鎌に遊ばれるかのような痛み。
けれどその痛みが私を急き立て、奮い起こす。
箒の柄をきつく握りしめ、スピードを上げて宵闇を翔けた。
「くっ!」
背後から迫る殺気。
咄嗟に進む方角をずらすと、すぐ傍を閃光が飛ぶ。
続けざまに、幾つもの閃光が私の身体を追い越していく。
私に出来ることは、あまりにも少なかった。
出来るのは箒の加速を止めないことと、閃光を避けること。
今まで杖を持てず、独学でしか魔法を知らない私には、己を救う剣が、
己を守る盾がない。
隠れる前に見つかった私に選べるのは、逃亡の選択肢のみ。
――生きることを選ぶ私の、選択肢。
白い息が背後へ流れる。
息さえ止められれば、宵闇に紛れられるのだろうか。
ちらり、と頭を掠める疑問に思わず苦笑する。
追手は“手馴れ”ていて、子供騙しは通用しないだろう。
何度目かの閃光を避け、私は歯を喰いしばった。
――生きていけると、願っていた。
それは自信とも過信とも呼べるような、思い込み。
何故ならば、私を消すというリスクはあまりにも大きいもので、
世間に知れ渡るスキャンダルとなる可能性があるからだ。
親が娘を消すというリスク。
娘を望まなくとも、旧家の名を背負う彼らは負えない。
――何を根拠に?
ああ、そうだ。
欠片も根拠のない、ただの甘えた考え。
闇の世界にいると知りながらも、安穏と暮らせるなどと。
闇の世界で隠されていると知り、誰かが分かっていると。
闇の世界を生きる彼らと知って、背負えないだろうなど。
彼らが本気で私を消そうとはしないだろうと。
“病弱”の娘がいつの間にか消えても、誰も疑問にしない。
私はそう気づいていたはずだというのに。
それでも冬の風以上に心が痛いのは、どうしてなのか。
幼い頃より、諦めることには慣れているというのに。
何故、私はこれほど弱いのだろう。
強くあれば、このような事態にならなかった。
強くなっていれば、弟たちも悲しそうな顔をしなかった。
もっと強い心を持っていれば、こんなに苦しくはなかった。
「――――――!」
洪水のように喉から溢れ出る叫び。
けれど言葉にならないそれは、虚しい無音の絶叫。
風に刻まれ、宵闇に呑まれ、声は届かない。
バチィ!!
遂に、背後からの閃光が箒に当たる。
箒が燃え砕け、私の身体は加速したまま宵闇の中へ弾け飛ぶ。
落下の衝撃はあったものの、あまり高度がなかったことと、
柔らかな雪の上へ落ちたことで酷い怪我はせずにすんだ。
「……う、く……」
何とか身を起こすと、箒から降りた追手が私を取り囲む。
黒いローブを身に纏い、顔を隠す仮面をつけた姿。
彼らと同じ、闇に従って生きる者たち。
追手は彼らに雇われたのか、もしくは彼らの同士なのか。
いや、私を消すという目的ならどちらでも変わらないことだ。
意志はあれど、力がない私。
ここで――終わる。
初めて認識したのは、過保護なクリーチャー。
お嬢様と呼び、ずっと世話をしてくれた優しい屋敷しもべ。
次に認識したのは、初めて姉と呼んでくれたシリウス。
素直な言葉と愛らしい笑顔、甘えてくれる弟。
シリウスが連れてきてくれた、小さなレギュラス。
一生懸命手を伸ばして、私とシリウスの手を掴む弟。
青みがかった黒い瞳――黒灰の長い髪。
「……!」
穏やかな眼差しと暖かな掌――私を呼んで包む低い声。
――甘く優しい音色で、姫君と。
……ああ、私は叫んでもいいのだろうか。
言葉にすらならなかった、あの虚しい絶叫でも。
私には遠すぎると分かっていても慕ってしまう名前を。
あの人に恋しけば――!
「――――――――――――――――――――――――ッ!!!」
「姫君」
暖かなショールに包まれ、大きな両の掌で髪を整えられ。
放心した瞳がぼんやりと動き、アルファードの瞳に重なる。
じわりと薄く潤みながら細まると、徐々に瞼が閉じていく。
とすんと、アルファードの胸に倒れる少女。
軽く受け止めたアルファードは、少女を腕に抱いて立ち上がる。
一瞬にして倒れたデス・イーターたち。
頷くアルファードの指示を受け、部下たちは迅速に片付けた。
少女を優しく見つめていたアルファードの表情はいつしか、
荒れ狂う激情を押さえ込んだ冷酷なものへ変貌していた。
瞳には暖かさの欠片もなく、映す全てを引き裂かんばかりだ。
アルファードは、足下にいるしもべ妖精を見下ろす。
「クリーチャー」
「はい」
「――限界だ。私の屋敷へ連れて行く」
「……はい」
「情報を欠片も漏らさぬよう徹底しろ、誰にも真実を許すな。
特にあれらにはな。しばらくの間は気づかれぬように」
「はい。お嬢様を宜しくお願い致します」
意識のない少女を、今にも泣き出しそうな目で見やるしもべ妖精に、
アルファードは冷淡な声を少しだけ和らげる。
「ただし……弟君への配慮は任せる」
「……ありがとうございます」
しもべ妖精は一礼し、すぐさま屋敷へ戻った。
凍えて震える身体、血の気がなく青ざめた顔色に溜息をつく。
いつもの少女からは、とても考えられない哀れな姿。
恐怖で声が凍り、言葉を発することが出来なかった少女。
気絶する直前まで、アルファードにも気づかなかった少女。
瞳を潤ませながらも、涙を流さなかった少女。
小さく華奢なその身体を、気高くも暖かなその魂を。
抵抗さえ打ち消す絶望の闇が、悪戯に傷をつけた。
屋根裏に独り閉じ込められているありえない生活だとしても、
それだけならば少女は一番安全だったのだ。
外の世界に少女を狙う闇の者は、いないということなのだから。
けれどその安全は、遂に破られてしまった。
存在を忘れるよう閉じ込めた少女を、閉じ込めていた彼らが。
必死に愛を望み、諦めた少女の心を知りもせずに。
「――容赦はしない」
アルファードは傍に控えていた執事に言う。
「先に戻り、部屋の用意を」
「客間……ですか?」
咎めるような声。
アルファードは思わず目を瞬いて、執事を振り返る。
執事は溜息を我慢したような声色で言う。
「現在の姫様のご様子から推測致しますと、このままお1人で
ご就寝して頂くのは、些かご不安になるかと思われますが……」
「……そうだな。では、私の部屋を整えてくれ」
「かしこまりました」
応えて消えた執事から、少女に目線を戻すアルファード。
かすかに濡れた睫毛にそっと唇を落とした。
彼女の絶叫が、今も彼の耳に残る。
END.