リン、と澄んだ鈴の音。
それまで深みを漂っていた思考が切り離されて、目を瞬く。
目を落としていたのが教科書であることを頭の隅で確認して、
ゆっくりと顔を上げれば、オネットが立っていた。
オネットの困ったような笑みと、手に持っている呼び鈴。
交互に見た私は、ようやく呼ばれたのだと理解した。
「あら……オネット?」
「オネット、ではございません。姫様、何度もお呼びしたのですよ」
「まあ」
もう一度目を瞬かせて、テーブルへ目を戻す。
ソーサーの上のカップはいつのまにか空になっていて、湯気があったはずの
ポットの紅茶は冷え切っている。
空高く輝いていた太陽は緋色に染まり、沈みゆく頃だった。
「こんなに時間が経っていたの」
「姫様がとても勉学を楽しんでいることは、私も分かっております。
けれど、集中しすぎることは、悪い癖でございますよ」
「ごめんなさい、オネット。気をつけるわ」
「私の言葉も、そのご返答も、何度目でございましょう?」
溜息をつくオネットに、私は少しだけ苦笑する。
何せ、今の一連の会話はオネットが私付きの侍女になってから、
毎回と言っていいほど行われてきたからだ。
そう、オネットは最初から容赦なく、私にお小言を言い切った。
私が使うようにと添えられていた呼び鈴で、私の意識を呼び戻して。
普通のご令嬢なら、何という無礼な態度かと怒るのだろう。
けれど私は、その清々しいまでの行動に感嘆とした。
そこまで私の名前を呼んでくれる人は、多くなかったのだから。
――生まれた時から強いられてきた、小さな屋根裏での私の生活は、
ある雪の夜を境に、いとも簡単に崩れ落ちてしまった。
気がつけば、私はアルファード様に助けられていた。
気が動転していたせいで、何が起こったのか当時のことはよく覚えて
いないけれど、目覚めた私の傍にいたのはアルファード様お1人。
驚いて声も出せなかった私を、何も言わずに抱きしめてくれた方。
そして屋根裏での生活は、アルファード様の屋敷へと変わった。
アルファード様にご迷惑をおかけしてしまうことは、承知している。
それでもあのようなことが起こっては、屋根裏にもいられらない。
シリウスとレギュラス、クリーチャーのことだけが心配だったけれど、
最初から見透かしていたのだろう。
時々ではあるものの、3人からの手紙を手渡される。
シリウスもレギュラスも、クリーチャーもいない初めての生活。
それでも、今の私の生活は“普通”なのだろう。
窓から差し込む朝陽に目が覚め、身支度を整え。
屋敷の方たちと朝食をとり、ゆったりと午前の時間を楽しみ。
テラスで昼食をとり、午後は好きなことに時間を使い。
アルファード様と夕食をとり、ベッドへ戻る。
挨拶をして、言葉を交わして、表情も心も感じられる生活。
1人きりの小さな屋根裏部屋ではなく、広く暖かな誰かのいる屋敷。
――こんな生活を、1年近くも出来ているだなんて。
屋根裏で過ごす世界を、己の全てだと思っていた時とは大違いだ。
「ところで、どうしたのです?オネット。夕食には早いでしょう?」
「姫様にこちらをお渡しに参りました」
オネットから差し出されたのは、1枚の封筒。
最近はあまり手紙がなかったこともあり、私は思わず立ち上がる。
「まあ……!わざわざありがとう、オネット!嬉しいわ、シルからかしら、
それともレグ?いいえ、クリーチャーかしら?」
「落ちついて下さいませ、姫様。紅茶をお入れ致します」
「ご、ごめんなさい、わたくしったら……」
「ふふ……」
オネットに冷静に言われ、はしゃいでいた私の頬が熱くなる。
すとんと椅子に腰を下ろせば、新しいカップに紅茶が静かに注がれた。
一口紅茶を飲むと、アールグレイの良い香りが広がっていく。
心を落ちつかせてから、そっと封筒を切った。
「これは……何てこと……!」
静かな執務室の中に、何者かが駆けてくる足音が聞こえてきて、
アルファードは書類から顔を上げ、少し首を傾げた。
この屋敷に緊急時以外に廊下を駆ける者はいない。
また足音の軽さで少女のものだと推測出来るのであるが、彼女もまた
普段は駆けることがない。
傍に控える執事のクラディと、アルファードは目線を交わす。
――バンッ!
そして勢いよく、執務室の扉が開かれる。
思わずアルファードは、目を大きく見開きながら硬直した。
扉を開け放ったのは、まぎれもなく想像していた少女だった。
けれど、ある一点のみ違っていた。
澄みきった灰色の双眸から、ぽろぽろと涙が零れ落ちている。
アルファードはらしくもなく、少女を凝視してしまう。
少女が泣く姿を見たのは、これで二度目だとアルファードは気づく。
けれど一度目の時はまだ五歳という幼い頃で、腕の中にいる時。
こんな風に離れた場所で、泣いている姿を見るのは初めてだった。
屋根裏での生活にも、愛しい弟たちと容易に会えなくなった時も、
学校に行くことが出来ないと知った時も、襲われた時も、
少女は一粒たりとて涙を流さなかったというのに。
「コホン……」
「っ!」
クラディの軽い咳払いに、アルファードは我に返る。
扉の所で立ちつくして泣いている少女の傍に、慌てて駆け寄った。
「姫君?」
「アルファー、ド様っ」
「どうした、姫君」
嗚咽で上手く言葉を繋げられないのか、口元に手を添えている。
アルファードはさっと少女を軽く抱き上げて、ソファへと座った。
クラディはすでにアルファードの意を承知しているらしく、
処理が終わった書類を抱えて、足早に執務室を後にした。
「どうした……何があった、姫君?」
扉が閉じ、気配が遠ざかった頃合でアルファードが尋ねる。
少女はアルファードにしがみつきながら、灰色の瞳を向けた。
「て、手紙に、ホグワーツ、シルが……」
「シリウスからの手紙か?」
「あの子……シルが、グリフィンドールに……」
「……!」
少女の途切れ途切れの言葉に、アルファードの鼓動が跳ねる。
代々、優秀なスリザリン寮生を輩出し、闇の勢力を、貴族の地位をも
今尚拡大し続ける……それがアルファードの生家、ブラック家だ。
「わたくし、今とても、嬉しいの、です……」
「姫君」
「シルが……自分の道を、拓いたこと……辛いでしょうに……」
アルファードは少女の言葉が、心底理解出来た。
生家を好まぬアルファードとしては、家のしがらみに囚われずに
別の寮へ選ばれたシリウスを誇りに思う。
闇で育ち、両親の狂気にも似た望みを、威圧にも似た一族の期待を、
生まれながらに背負わされた、“長男”であるシリウスが――
スリザリンに敵対するグリフィンドールへと選ばれた。
グリフィンドールを“選んだ”。
しかし家のしがらみは酷く醜く、強い。
歪んだ力を持って、シリウスを取り戻そうと蠢くだろう。
そうしていつしか、彼の未来を取り戻せないと気づいた時は――。
生家を見限ったアルファードが、生家に捨てられた少女が、
何よりもその先ことを分かっている。
だがアルファードは、いつかこんな日が来ることも分かっていた。
一番最初に少女を見つけ、その心を救ったのはシリウスだ。
あれほど慕う姉を己の家に奪われたのだ――反抗もするだろう。
それが、早まっただけの話。
「アルファード様……勝手なことと思い、心苦しいのですが……」
「分かっている、姫君。シリウスを助けたいのだろう」
「……はい。シリウスはこれから、大変な思いをするでしょう。
シリウスの手に負えない時で良いのです、どうか……!」
「安心しなさい、姫君。シリウスとて、大事な私の甥だ。姫君に誓って
無碍にはしない」
「はい……」
顔を上げた少女の頬には、未だ涙が流れている。
アルファードは熱を持ってしまった瞼に、そっと唇を落とした。
「だから、もう泣きやみなさい」
END.