※第2の別人
水面のようにゆらゆらと揺らめく視界。
揺らめくたびに、景色は濃く薄く変化する。
周囲には濃霧が纏わりつき、白く霞みがかっている。
よくよく見やれば他の色が見えてはくるものの、
滲んでいるかのようにはっきりしない。
とてつもなく不安定で、溶け消えそうな場所。
それでいて落ち着き、保っていてほしい場所。
ここから抜け出したくないのは、どうしてだろうか。
以前の己ならば、不鮮明なものは嫌った。
ただまっすぐに前だけを、ひたすらに見つめ。
ただまっすぐに前だけを、ひたすらに進み。
ただまっすぐに前だけを、ひたすらに信じて。
けれど、己が定めた領域は決して侵されぬように。
けれど、己が定めた存在は決して害されぬように。
そうして歩んできたつもりだ。
物心ついた頃から、一人で歩み始めるまで。
己の信念は一度も疑ったことはない。
それなのに。
――ああ、何が間違っていたのだろうか。
闇に手を伸ばしたのではない。
生れ落ちた時から、すでに闇の中にいたのだから。
闇で育ち、闇を見て、闇を歩き、闇に生きる。
一度も見たことのない光など、焦がれるはずもなく。
それが、“当たり前の世界” だった。
――違うと知ったのは、どうしてだったのか。
闇が、己の定めた領域を侵したからか。
闇が、己の定めた存在を害したからか。
己のしていることは全て間違っている――。
それを知ってしまったからか。
だとしても、背負った罪は重く枷になっている。
償うべきものは、すでに失われているのだ。
見限った闇の道へは戻れない。
見知らぬ光の道へは進めない。
ただただ、纏わりつく濃霧の水面に揺られるだけ。
どこにも戻れず、進めず、彷徨い、漂う。
居場所さえ分からず。
酷く情けなく愚かしい存在に成り果ててしまった己には、
きっとそれぐらいしか出来ないのだと。
そう、思っていた。
「おにいちゃん、だあれ?」
そんな声が、聞こえるまでは。
小さく揺れていた水面が広がり、濃霧が一気に晴れた。
いきなり舞い戻ってきた色鮮やかな世界の中に、
思わず瞬きをして呆然と立ち尽くす。
これほど色彩が溢れる世界を目にしたのは、どれほどだろう。
あまりにも鮮やかすぎて、瞳が痛くなるような気がする。
ふと、また声がかけられた。
「ねえ。おにいちゃん、だあれ?」
目線をゆっくりと下に向けてみる。
そこには、5歳くらいの子供が立っていた。
大きな瞳がまっすぐに己の瞳を射抜き、思わず顔を逸らす。
ざわりと心が揺らいだのは、きっと居心地の悪さだ。
子供の瞳に浮かぶ感情は、好奇心という無邪気な感情。
世界に満ちる醜悪さも知らない、どこまでも純粋で無垢な瞳。
闇に染まった己には、到底持ち得なかったもの。
「とうさまの、おきゃくさま? とうさま、おうちにいるよ」
笑顔を浮かべながら、子供は家の方を指差す。
そこで初めて、己が誰かの敷地内にいることに気がつく。
ひとまず子供には首を横に振ってみせた。
「おきゃくさまじゃないの? なにか、ごよう?」
また、首を振る。
すると子供はやや悲しそうな表情をする。
「……おにいちゃん、まいごさん?」
迷子など、一度もなったことがない。
「おにいちゃんのおうち、どこにあるかわからなくなっちゃった?
だからおにいちゃん、すごくないちゃいそうなの?」
――泣きそう……?
確かに今までも、悲哀や絶望を感じたことはある。
けれど、思いだせる限りでは泣いた記憶など一度もない。
それなのに、泣きそうな顔をしている?
「ぼくも、まいごになったことあるよ。しらないとこ、こわいよね。
でも、とうさまがみつけてくれたんだ! だからこんどはね、
おにいちゃんのおうち、ぼくがさがしてあげる」
『……きみ、が?』
「うん! おててつないだら、こわくないよ!」
小さな手が、疑いもなく指を握ってきた。
これほど純粋で、温かくて、頼もしい手を見たことはない。
指を握られただけで、こんなに心が安らぐなどと。
まるで幼い頃、兄が褒めて頭を撫でてくれた時のように。
「おにーちゃん、おなまえは? ぼくはね、はりーっていうの!」
『――レギュラス。レギュラスです……ハリー』
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