※男主人公
「あれー? 院長どうしたんですか? こんな所で」
手を止めて高宮がカルテを見ていると、ふいに部屋のドアが開いて
聞き慣れた声が耳に入ってきた。
そちらを見ると、きょとんとした顔の青年がいた。
――咲月朔夜。
彼はここ、 R.E.D の獣医師であり、また二科……通称、
『ワイルドライフ』 に勤務している青年である。
朔夜が言った “こんな所” とは二科の執務室のことである。
別段、おかしくはない。
しかし、二科が院長である高宮直属の部隊とはいえ、高宮がここに
留まって仕事をするのを、朔夜は配属されてから今まで一度たりとて
見たことがなかった。
そんな朔夜に、高宮は首を傾げる。
「……陵刀から聞いていないのか、咲月?」
「司君に?」
その言葉に、こくんと首を傾げる朔夜。
しばらく思案にくれたあとに、ぽんと手を打った。
「ああ、そういえば昨日、すごく大切な講座を直々に開くからちゃんと
朝から来るようにとか何とか、言っていたような……」
――すごく大切な講座。
あの手この手でやらせてくれと説得され続けて、朝一番に院長室まで
来ては開口一番に説得されて、果ては電話や手紙や書類までも説得尽くし。
オーナーはすでにせんの……もとい、説得されてしまっている。
いい加減にしてほしくて、結局折れてしまった。
とても、信用できなかったが。
「でも、司君の “大切” はどうも信用出来なくて……結局、いつもの
出勤時間に来てしまったんですが……」
「……ああ、私も信用出来ない……」
何故その情熱を、岩城のように仕事に持っていけないのだろうか。
彼を前にすると起こる頭痛を、また思い出した。
ずーんと暗くなる執務室。
ふいに、思い空気を一転させるかのように朔夜は顔を上げて
にっこりと笑った。
「院長、急患いませんよね? お茶にしませんか?」
「……そうだな、いい頃合だろう」
いつも慌しい二科だが、今日は珍しく忙しくはない。
朔夜も午前は非番とはいえ、いつものように緊急の呼び出しがなかった。
なので、贔屓にしている和菓子屋でお気に入りの大福を買ってきてから、
のんびりと出勤してきたのだった。
手の袋を見せると、高宮も微笑して頷いた。
「ここの大福美味しいんですよー! 院長はあんことか平気ですか?」
「ああ、好きだ」
「本当ですか? それは良かったー。実はバラ売りがなくて2人分のを
買ってきちゃったんですよね」
こぽこぽとお茶を煎れて、大福の箱を開ける。
朔夜の顔はいつもより、にこにことしていて幸せそうだ。
その笑顔をあまり見る機会が少ないことを、改めて思い知る高宮は、
多少残念に思いながら、朔夜から大福を受け取った。
朔夜は嬉しそうに大福を頬張っている。
――数十分後。
すごく大切な講座から帰ってきたみんなにどやされる、
そんなことをまったく知らずに……。
END.