※捧げ物
宵の中を駆け抜ける。
月明かりが朧なせいで地上には闇が濃い。
それでも仕事として夜に動き回っていたおかげだろう、瞳はすぐさま
暗闇に慣れてくれた。
ぶつかれば音を立てそうな障害物を避ける。
万が一、こうして走る所を誰かに見つかってしまえば、その時点で
この作戦は中止になってしまうのだ。
チャンスは今夜のみ。
絶対に見つかるわけにはいかない。
吐いた息は白く変わって後方に流れていく。
一瞬で消える自分の痕跡。
かつてはそれが忌々しくも思えた。
常に自分の未来を克明に暗示しているかのようで。
けれど、今になってはありがたい。
考え方一つで周りにある全てのものの見え方がこうも違ってくるものだと
実感させられる。
いつの間にか予定の場所まで走ってきた事に気がつき、通り過ぎるような
失態はしないように減速する。
周囲の暗さを再度確かめ、呪文を口にして地を蹴る。
ふわりと静かに持ち上がった体は高い塀を越えて傍の木の枝へと足を
つかせた。
目の前には巨大な建物。
幹に背をあずけながら周囲のひと気を探る。
この時間にも見張りはいるはずだと覚悟していたが、どうやら
思い過ごしだったらしい。
――いや。
ある考えが思いつき、ふと苦笑を浮かべる。
昨日 “偶然” にも再会した仲間達。
何か行動を起こす事を見抜いて、細工をしたのだろう。
――何を言われるか、たまったもんじゃない。
謝礼を寄こせとぼったくられるか、からかわれるか。
どっちにしろそれは作戦が終わったあとの話だ。
何にしろ見張りがいないのは好都合。
頭の中に暗記した見取り図を広げて位置を把握する。
もう一度、今度は別の呪文を呟いて枝を蹴った。
先ほどよりも速度を上げて空を翔ける。
窓や地上に影が落ちないように気をつけながら、何度か角を曲がり、
ようやく目的のテラスを見つける。
手すりに足を置いて素早く柱の傍へ身を隠す。
目を閉じ、息を殺して耳をすませてみても、穏やかな風の音くらいで
他には何の音もしていない。
飛んでいるのは気づかれなかったようだ。
小さく安堵の息をつく。
柱に身を寄りそわせたまま、今度は窓を見やる。
窓の向こうには白の薄いカーテンがゆるやかに引かれ、奥は薄暗い
静寂が広がっている。
さすがに鍵はかかっているだろうと、苦笑しながら指をかけて
取っ手を手前に軽く引く。
だが考えに反して、窓は引っかかりもなく簡単に開いた。
魔法じゃ開かない仕掛けがしてあるようならば、昔取った杵柄だと
ピッキング道具も持ってきていたのだが、どうやら無駄な装備として
終わってしまったらしい。
――何故、鍵が開いてるんだ……?
これはもう無用心どころではない。
確かに部屋にいるであろう人物は、そうそう弱くはない。
そこらにいる野党や盗賊などでは勝ち目がないほどだ。
だからとはいえ、見張りもなく鍵もなく。
明日の式典の主役がいる部屋とは思えない。
久々に感じてくる呆れの頭痛に眉をひそめる。
小さく窓を開けて、部屋の中へ体をするりと滑り込ませた。
カーテンを手の甲で静かによけながら視線を上げて、息を呑んだ。
澄んだ青い瞳が、己の瞳を射抜く。
窓を開けた事で起きた、というわけではないだろう。
しわ一つないベッドの上にきちんとした姿勢で座っている姿は、
今までまったく眠っていなかったという事実を物語る。
むしろ、窓からの侵入者を待っていたかのよう。
呆然と立ち尽くしているのに焦れたのか、少女は立ち上がった。
しっかりした足取りながらもゆっくりした動作で、近づいてくる。
あと一歩踏み出せば触れる距離。
まるで線を引かれたように、少女はそこで立ち止まった。
顔をうつむかせているせいでその表情は見えない。
互いに口を閉ざしたままで静寂を招く。
分かっているのだ。
何か言葉を発してしまえば終わりなのだと。
何か行動を与えてしまえば始まりなのだと。
それはこれからの運命を変える出来事。
些細なきっかけは未来まで及ぼす。
自分は重大な犯罪者になり。
少女は哀れな被害者になる。
――それでも。
ああ……それでもだ。
犯罪者の咎をまた背負う事になったとしても。
篤い信頼を持ってくれた人達を裏切ろうとも。
諦めきれないからここにいるのだ。
諦められなかったから、ここに来たのだ。
この醜い姿のまま。
明日の美しい花嫁の前に。
ようやく顔を上げた少女は涙をあふれさせていた。
今にもこぼれ落ちそうな雫。
刹那の輝きは、他の何よりも煌きを放つ。
「――アメリア」
「……来ないって……思ってました……」
小さくかすかな声。
けれどはっきりと届く。
「リナさん達が…絶対に大丈夫だからって言ってくれましたけど、
来ないんだろうなって思って……寝ようとしました」
「……そうだな」
一緒に来てくれますか、という問い。
頷かなかったのは紛れもない自分だった。
「でも……明日は早いのに…疲れてるのに、眠れなくて。もしかしたら、
もしか……すると……気づけないって……思っ……」
涙がこぼれた。
「だって……私が寝てしまったら……もう、明日が――!」
「アメリア……ッ」
たえきれず。
少女の肩を引いて腕の中に閉じこめる。
もう決して離したりしないという想いをこめて。
強く、強く。
――そうだ…覚悟はしていたさ。
己が犯罪者になる事も、少女を被害者にさせる事も、
少女の父を裏切る事も、仲間に後始末させる事も。
最初から自分勝手な欲望のためだけに。
そうなる全ての覚悟をしていた。
明日に期限が迫る今まで、踏み出し切れなったのは。
少女に手を弾かれるかもしれないという恐怖。
手を取るなどありえないと自嘲した弱さだ。
「……さん、……ゼルガディスさぁん……!」
「すまない……アメリア」
「おそ……遅いです、遅いですっ……どれだけ待ったと……」
「そうだな、俺が悪かった」
己の感情だけに囚われすぎてしまって、少女の意思を知らずに
立ち止まっていたのだから。
さらり、とカーテンが揺れて満月が雲から顔を出す。
一つの影がくっきりと床に映る。
それを見て思わず微笑みが顔に浮かんだ。
明日に盛大な結婚を控えた姫君であり花嫁を、本人の合意の
もとではあるが城から奪い去るのだ。
昔のように闇にまぎれて逃げるなど許されない。
腕の中にいるのはそんな少女だ。
「アメリア、行くぞ」
「――はい!」
ぱたん……。
「――こうして……キメラの青年と姫君は、誰にも見つかる事なく
城から逃亡出来たのでした……。おしまい……。」
「素敵なお話ですわ……」
「何が “おしまい” で “素敵な話” だ!!」
本を閉じるフリをしながらシルフィールに向かって笑いかけるリナに、
ゼルガディスは怒り心頭になって怒鳴り、律儀に拍手を送るガウリイを
じろりと睨む。
リナは怒鳴られた事がとても不満そうな顔をした。
「なによ。一歩間違えてればこうなったってお話じゃない」
「まったく縁起でもない……!!」
「でも戻れなかったらそうしたんだろ、ゼルは?」
にこにことした笑顔で言いのけるガウリイに、ゼルガディスは思わず
息を呑んで言葉を失ってしまった。
それをにやついた顔で見ていたリナだったがおもむろに、ひょいっと
軽く肩をすくめてみせた。
「でも本当に危なかったじゃない。アメリアの結婚話は」
「そうですわね……。アメリアさんが何も言わなかったので、実際
リナさん達が押し留めきれませんでしたら……」
「このあたしと、姫の職務より娘としてのアメリアの気持ちをくんでくれた
フィルさんに本気で感謝しなさいよねっ!」
「ぐっ――」
それを言われては何も言えないゼルガディス。
確かに、リナとフィリオネルが相手を留められなければ、
もう少しゼルガディスの体が元に戻るのが遅ければ。
リナの語る話通りになっていたかもしれないのだ。
「でも早いですわ…お二人の結婚式からもう一年経つんですね。
……そろそろリナさん達もどうです?」
「なっ、何言ってんのよ、シルフィールは!!」
「ああ…それは俺も同感だな。リナの方が覚悟しないと、旦那と
いつまでもフラフラしたままだろうしな」
「ちょっ……!!」
じっと見やってくるガウリイを何故かハリセンで叩き、顔を真っ赤に
しながら二人に抗議しようとリナは立ち上がる。
そこに部屋のドアが開いた。
「どうしたんですか、リナさん。顔が真っ赤ですよ」
「実はな、アメリア――」
「アメリアさん、良い所に! 聞いて下さいな!」
「――黄昏よりも昏きもの…血の流れより紅き……」
「あああっ!!? リナさん待って下さいーっ!!」
END.