ハリーは教室の片付けを一通り終えて、手を止めた。
「ふう……こんな所か」
ひとつ息をついてから教室の中をぐるりと見回す。
高く広い石造りの天井と、いくつかの窓がある壁に薄いマットが
敷かれている床。
いくつかの長テーブルと人数分のイス、一段高い教壇と、中二階にある
少しこじんまりとした準備室。
棚に並んでいる本や小物は色々と違うものの、教室の雰囲気は
自分が学んだ7年間の懐かしさを含んでいる。
とはいえそれは未来の話であり、ハリーにとって“同じ教室”という
わけではないのだが。
教壇の机に軽く腰を預けて、ハリーは窓の向こう側でだんだんと緋く
染まりつつある空を見やった。
「――?」
しばらくの間、そうして色々な想いを巡らせていたハリーは、
ふと部屋の空気が変わったことに気がついて目を瞬かせる。
教室の中へすっと視線を滑らせてみる。
すると、教室のドアが音もなく静かに閉まる所だった。
そのまま黙って相手側からのアクションを待ってみるものの、
何も仕掛けてくる様子がない。
少しだけ拍子抜けしたハリーは、肩をすくめる。
「そこにいるのは誰かな」
息を潜める気配が揺らいだのを感じて、ハリーはそこにいる相手が
ジェームズではないと悟る。
透明マントを簡単に見破り、悪戯を防いだ上にお返しをした
ジェームズであれば、このような手段には出てこないだろうし、
ましてや戸惑ったりしないだろうと思ったのだ。
父にとてもよく似ている、自分の息子の考え方から推理したこと。
「何か用事かい? 今ここには僕1人きりだけど」
すると一拍の間が空いて、壁際にふわりと人影が現れた。
それは透明マントを手にして、酷くばつの悪そうな顔をしているシリウス。
所在なさげにハリーからは視線を外している。
「……シリウスくん? 今朝ぶりだね」
「……はあ」
思ってもみなかった青年の姿だったことに、思わずハリーの目が瞬く。
しかし、その戸惑いもすぐに温かみのある嬉しさへと変わる。
「――大丈夫だった? 誰にも見つからなかった?」
「え? ……はい……まあ」
驚いたように顔を上げたシリウスは、ひとつ頷いた。
シリウスにはきっと、ハリーが穏やかな微笑みを浮かべているように
見えたのだろうが、実の所、ハリーは内心冷や汗をかいていた。
無意識にするりと滑り落ちてしまった言葉は、幼い自分が名付け親に
向かってよく問いかけていた言葉。
逃亡中であるにも関わらずに、自分を心配して何度も手紙を送ったり
会いにこようとしていた名付け親への。
もちろんそれは孤独だったハリーにとって嬉しいことではあるが、
そういう意味で心配していたのは自分の方だとハリーは思う。
何せ名付け親は自分のことに限って棚に上げて配慮せず、安全などは
必要最低限しか頓着していなかったのだから。
誤魔化すように軽く空咳をしてから、ハリーは首を傾げる。
「それで、どうしたんだい?」
「……その……少し、話がしたくて……」
「そうかい」
ハリーが片手でイスを示すと、シリウスは素直にイスへと座る。
その向かい側のイスへと座ったハリーは、ゆっくりとシリウスの顔を
じっと見つめた。
だいぶ居心地悪そうにシリウスはしばらく視線を彷徨わせてから、
おそるおそる切り出した。
「俺の名前聞いても……何も、言わなかったから……気になって」
「それは――ブラック家のことかな。それとも、寮のことかな」
言いにくそうにしているシリウスに代わって、ハリーが簡単に問う。
「……どっちも。流されたのは……初めてだったから」
ある者は、有名な魔法使いの旧家出身であることに。
ある者は、代々スリザリンの家系の彼がグリフィンドールにいることに。
様々な感情を抱き、表情を見せ、言葉をかけたのだろう。
きっとそれは教師たちもそうであり、彼の信頼する親友たちにしても
そうだったのだ。
だから“ただの生徒”であるように淡々と接したハリーのことが、
今までと違いすぎてシリウスには分からない。
痛いほどにその気持ちが分かるハリーは、苦笑してしまった。
「僕は昔、こう思っていたことがあったよ。僕のことを知らない人に
会ってみたいとね」
「……え?」
「うんざりだったね。僕自身、ほとんど覚えていないことで周りが
大げさに騒いでいて。近くにいる人以外じゃ、僕の意思なんて
まるっきり無視してるようなものだし」
「……そうだったんですか?」
戸惑うように首を傾げて問うシリウスに、ハリーは思いきり大きく
頷いてみせる。
「だから僕は、わざわざシリウスのことを騒いだりはしないよ。
たとえシリウスがどの家出身でも、シリウスはグリフィンドール寮で
もう5年も過ごしている。それに変わりはないだろう?」
シリウスの目を見つめて、ハリーは重ねて言う。
「僕はね、シリウス。ブラック家と話をしているんじゃない。
シリウス自身と話がしたいんだよ。それはジェームズもリーマスも、
セブルスでも一緒のこと。僕は君たちの背後じゃなくて、目の前の
君たちを見たいと思ってるから」
「目の前の俺たちを、見る?」
「シリウス、僕は君を見ていないかい?」
問われ。
シリウスは真っ直ぐにハリーの目を見つめる。
とても真剣な表情で、まるで宿敵を睨みつけているようにも
見えるかもしれない。
やがてハリーからそっと視線を逸らして俯いたシリウスは、今度は
椅子から勢いよく立ち上がる。
そして、失敗したような微笑みを見せた。
「いいや……いいや! あんたは俺のことをちゃんと見てくれてるよ。
――まるでジェームズに初めて会った時みたいにさ」
「改めて、これからよろしく。シリウスくん」
手を差し伸べると、シリウスはちょっと悪戯に目を光らせて、
パンッとハリーの手を軽く叩いた。
「さっきみたいにシリウスって呼べよな、ハリー先生!」
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