「損と得」
それがどんなに唐突であったとしても、
私はただ黙ってそれに聞き入る。
彼の話には反応を求められたその時にしか
言葉を返さない。
彼は私に向かって何かの言葉を望んで、
話をするわけではないから。
「死と生と同じだ、どんな奴にもあるもんだ」
損と得。
死と生。
闇と光。
目の前にあるのは常に両極。
どちらかに彼の意識が傾く事はなく、
どちらかが彼の領域に踏み込む事はない。
たとえその双つにどれほどの意味が込められていても。
たとえその双つをどれほどの人間が欲しがっていても。
彼は自ら両極を手離し、いつでも望んでいる。
終ぞ己には手に入らないものだと知っていても、
突き放すようにしながらも見守っているのだ。
水に浮かぶ、紙で作られた小さな箱舟。
沈んでしまわないように掬ってやりたいのに
触れた瞬間に沈んでしまうと慄く。
まるで幼い子のように、まるで老た子のように。
「損と得。どっちが多く手にしてるかなんて、勘違いしてんだよ。
そんなもん一度しか持つ事が出来ないっていうのにな」
一度だけ。
「あいつらの言うものなんて、ちっぽけなものでしかない。
それが損か得だなんて誰にも言えないほど」
誰にも言えない。
「分かりはしないさ、そう思うのはそいつだけなんだからな。
手にしたのが損か得かだなんて、そいつが決めることだ」
楽しげな笑みはどこか哀しげに見える。
そう言ったら呆れられるだろうか。
「本物の損も得も、一度しか手に入らないもんなんだよ。
だから手にしたそれが損か得か、勘違いで決め付けるんだ」
手を伸ばした先には虚空。
彼はそれをぐっと握りしめる。
「そいつが全てを決められる。だから与えられた損も得も、
そいつが認めなければ損にも得にもならない」
ひらりと開いた手。
そこにはやはり何もない。
「空虚で傲慢な、たいした想像力」
謙虚で緩慢な、たいした行動力。
「だから後悔するんだよ、杖を持っていれば……ってな」
END.