「蝶子! チョコレイト買ってきたぞ!」
向こう側から騒々しく開いた扉。
手の上に開いた本へ落とした視線を上げて、
入ってきた彼を睥睨する。
けれど彼は私の機嫌に気づかずに、
いそいそと椅子を引き寄せて座った。
「……何?」
「だから、蝶子にチョコレイト買ってきたんだって!」
――チョコレイト。
聞いた事があるような言葉に記憶を手繰る。
そういえば一、二年くらい前にそんな名称を教えられたかもしれない。
西洋から伝わってきた甘菓子を、友人の会社が製造することに
成功したらしいと。
だとするとその 『チョコレイト』 はまだ市販されてまもないはず。
大変高価なものだろう。
それなら、彼はまた無駄遣いをしてきたのか。
「ずっと買おうと思ってたんだけど、なかなか機会がなくってね」
晴れやかな笑顔の彼に、どんどん機嫌が悪くなる。
高価なものなどいらない。
どうして分かってくれないのだろう。
笑顔で何かを買ってくるたびに苛立ってしまう。
意味がない事なのに。
そんな行為で私を引き止めるようとする。
まだまだ良いものがたくさんあるのだと告げている。
今回のチョコレイトの前には、水蜜桃だのオレンジだの、
夏みかんだの――どれも市場に出れば、上流社会しか買えないような
高価なものばかり。
「ほら、これがチョコレイト」
銀色の光沢を放っている包み紙を、彼は静かに取り除いていく。
その中から、長方形の形をした濃い茶色の板状のものが出てきた。
あまり厚みがなくて、簡単に手で折れるような板。
……これが 『チョコレイト』 ?
色からしてすごく美味しくなさそう。
むしろかなり苦そう。
「全然苦くないぞ。すっごく甘いんだ」
浮かんだ表情から第一印象を読み取ったのか、
彼はにっこり笑ってそう言う。
私の機嫌なんて気づかないくせに、そういう所だけ読み取るのが
上手なのがまた苛立つ。
どうしてそんな所だけ聡いのか分からない。
「食べてみろよ」
ぱきっと折った板を差し出す。
幾分小さめに折られた板は、私が食べやすいようにだろう。
そんな気遣いがまた苛立たせるというのに。
「……分かったわよ。食べればいいんでしょう、食べれば」
「溶けるから気をつけろよ」
「え、チョコレイトって溶けるの?」
確かに手渡されたチョコレイトの欠片は折った時よりは
柔らかくなっていて、このまま持っていると、
本当に溶けて手がべたべたになってしまいそう。
「本当に甘いのね?」
「本当だって」
その言葉に私は溜め息をついて、食べる決心をする。
彼は買ってくるものに対して嘘はつかないから。
でも、茶色という色の抵抗はそのままだったから、
目を閉じて板を口に放り込んだ。
「……っ」
じわりと広がっていく、苦味の中に濃縮された甘み。
板はとろりと溶けて形をくずしていく。
ゆっくり飲み干すと喉にも甘みが残った。
少し呆然としながら目を開けると、
彼の待ちわびる笑顔が飛び込んできた。
「……甘い…わね」
「だろ? 美味しかったろ?」
「……そう、ね。……美味しかったわ」
「やった!」
頷くと彼は椅子から立ち上がって両腕を振りかざした。
全身で嬉しさを表現するのは、私が彼が買ってくるものに対して
いつも 『普通』 としか反応を返していなかったせいだろう。
けれど、このチョコレイトは――本当に美味しかった。
どうしてかは分からない。
何を食べたって美味しくないか、いつもの通り普通としか
感じないとずっと思っていたのに。
「やっと蝶子に美味しいって言ってもらえた!」
「……そんなに言わせたかったの?」
「だって、蝶子、ずっと生きるの諦めたような顔してるから」
ぱきん、と板を折って彼も欠片を口に運ぶ。
「なあ蝶子。病気、治す努力してくれよ……チョコレイト、
何度でも買ってくるからさ」
「……治らないのよ」
「美味しいもん食えば治るって! 心が元気なら、絶対病気も治る」
「どうして断言出来るのよ」
「だって蝶子とチョコレイトって名前が似てるだろ?」
は?
言葉の意味が分からなくて彼を見上げる。
「この甘いチョコレイト、食べると幸せな気分になるんだ。
俺、蝶子と話してると幸せになれる」
だから、と彼は笑った。
「幸せにしてくれるのを食べてれば、絶対に幸せになれるだろ?」
ああそうか、彼は馬鹿なのだ。
馬鹿だから私の気持ちに気づいてくれない。
馬鹿だからそんなことを平気で言える。
「治らなかったらどうしてくれるのよ」
「そんときゃ、もっと美味いチョコレイト買ってくるって!」
ああ。
私も馬鹿だから、そのことに気づかなかったのだ。
END.