頼りなさげな月光が窓辺から零れてきて、
暗い部屋の中をおぼろげに浮かばせる。
けれど、ひときわ月光を跳ね返しているものがあった。
冷たそうなパイプベッドの上の白いシーツ。
清潔にぴんと皺一つなく張り詰められていたのだろうが、
今や乱闘後のようにくしゃくしゃになってしまっている。
それをしかと、握りしめる指がある。
暗がりに身を隠すかのように、壁側の隅の方へ足を
投げ出して座る影。
その顔には何の感情も浮かんではいない。
だが、瞳は確固たる己の意思の存在を強く主張している。
多くの感情を宿しすぎて、とても複雑な色になってしまった瞳。
しかし、ただひたすら前を見据えてじっと動かない。
その先に相貌があった。
月光を浴びて煌々と輝いている瞳に宿っているのは
まるで一種の狂い。
病的ともとれる、獣じみた欲望のようなものが宿っていた。
目の前にある特別な一品の餌に、すぐさま喰らいつきたいと願い。
しかしそうしていい瞬間は、まだきていないのだと静かに己を律し。
今にも鎌首をもたげそうな狂気を、理矢理繋ぎとめている。
ただ少し、ほんの少し、崩壊しそうな心の奥底に残る
小さく細く切れそうな理性という鎖で。
シーツを握りしめる瞳は知っている。
目の前の相貌が、己を喰らいたくて喰らいたくて堪らないという事を。
そして己こそが、その相貌が持つ欲望に対して満足させられる
唯一の餌だという事を。
だからとて。
だからとて易々と喰らわれたいとは思わない、思えない。
けれどまた別の事も知っている。
光る相貌が今までどれだけ狂気を抑えて抑えて抑えて
己を守っていたのか。
壊れそうになるまで、狂いそうになるまで今のようになるまで、
強く果てない欲望を抑えようと、必死になって苦しんでいたのか。
相貌がそれを隠して笑いながら、接していたのを知っている。
それを己の感覚が分かってしまったのだ。
相貌は全てを知っていたのだと知るやいなや、自殺を図ろうとした。
――止めたのは、己だ。
きつくシーツを握りしめて心の中で繰り返す。
泣き叫んで悲鳴を上げて自ら命を絶とうとしたこの相貌を、
がむしゃらに止めたのは己なのだ。
この身を喰らわれたいとは、到底思えない。
けれどそれを上回るほど、この相貌を見られなくなるのは辛いのだ。
くるくると色を変えてはしゃぐあの相貌を、忘れたくないのだ。
真っ直ぐと見上げてくるあの無垢で素直で眩しい相貌を、
決して失いたくなかった。
どうすればいい。
そんな言葉が脳裏に幾度も浮かび消えて、また浮かび消える。
意味も答えもない泡沫のような言葉に己の思考は
麻痺しているのだと影は気づく。
今も目の前の相貌が、欲望と理性の狭間で苦しんでいるというのに。
己はいとしさを感じていた、いや、今も感じているこの相貌に対して、
とてつもない恐怖を覚えて助かりたいと考えているのだ。
それは何ていう傲慢で、自己中心的な。
大衆であれば当然であろう考え方。
けれど、影は忌々しさに毒を吐きたくなる。
ふいに相貌の色がゆらめいた。
奥から透明な水滴がじわじわと沸き起こり、膨らみをつくり、
零れた分がその滑らかな頬を伝っていく。
だが相貌自身はそれんな事に全く気づいていないのか
相変わらず影を見据えている。
影は相貌が濡れた事に驚きすぎてしばらく何も考えられず、
ただその雫がシーツに吸い込まれていくのを言葉なく見ていた。
雫がシーツに滲みをつくった所で、影は我を取り戻す。
そして静かにゆっくりと、強張っていた身体の力を抜いていく。
ああ、いつもの相貌じゃないか。
何を恐がっていたのだろう。
持たせてやりたかったのは幸せだ。
この相貌に持たせてやりたかったのは、幸福だ。
シーツを握りしめていた指をほどく。
するりと濡れた頬を両手で包み込む。
小さくやわらかな顔は相貌を大きく見開かせると、宿る色を消した。
そしてしだいに開かれる口腔から現れて姿を見せてくるのは、
長く鋭利な二本の牙。
こわがることはもうなにもない。
しあわせならばすべてあげよう。
虚空を滑るようにして、牙は影の喉元へ吸い込まれていく。
その相貌の背を、影は暖かな腕で優しく抱きしめる。
そして耳元で相貌の小さな小さな、聞き逃しそうな
最期の声を聞いた。
END.