吐く息が白い。
ふかふかした毛糸のマフラーとコートを身に着けているものの。
寒い、という感情は、鼓動を刻んでこの世に立ち、生命という形なき
恩恵を授かったからには、自然として存在しなければならないもので。
ならば当然のこと、涼しいも暑いも暖かいも々で。
しかし今は。
「…………さむーいよー」
寒いのである。
月は師走の日は末――大晦日の一週間前。
夜になると、街にはクリスマスソングが軽やかに流れ響き、
どこの店も家族や恋人たちを目的とした、様々なサービスや
イルミネーションが華やいでいる。
けれど、寒さに後押しされて早くなる足取りは、にぎわう街とは
正反対の人気のない方向へとどんどん進む。
ついには、静かな林道へと入っていく。
まだ朝を抜けたぐらいの時間帯のせいか、辺りは露に光が反射して
煌々と輝いている。
霜が降りた道をさくさくと歩いていた足が、ふと止まる。
――はふぅ。
軽くついた溜息が白くなってすぐに消えた。
道を外れて林の中に踏み込んでいくと、小さな音が聞こえてくる。
音はやがて意味を持ち、しばらくすると人の声に変わった。
少し高めの、言いあらがうような声。
手袋を忘れて赤くなりつつある指先を、コートの内ポケットの中に
入れて、長方形の札を一枚取り出す。
「か者退け退け――避界陣」
虚空に投げた札は己の意思を持つように、木々の間をするりと飛び、
一瞬ののちバチリと電磁波のような音を響かせた。
札が飛んだ方へ足を進めると、一般的に見ればそこには奇妙な
光景があった。
呆然としたような高校生くらいの少女が立ち尽くし、その前に額に
張り付いた札を何とかしてはがそうと、狐のような狸のような
生き物が地面でもがいている。
だが、その生き物の瞳は紅で、体毛は濃紫を泥で汚したような色。
ギーギーとわめく口からは牙、手足は爪が鋭利に伸びて、おまけに
尾は三本というありえない風体だ。
「もーうるさいなー。少しくらいは静かにできないのかい?」
そんな生き物に対してさせて驚く様子もなく、呆れた視線を
向けるだけ。
妖異と呼ぶものに、今更怖がる必要などないからだ。
ある意味で、日常茶飯事なのだから。
「かの者鎮め鎮め――赦界陣」
「ギィッ!」
妖異はジュウッ、と焼きつく札に悲鳴をあげ、虚空にゆっくりと
消えていった。
緩んだマフラーを巻きなおして、唖然としている少女の方へ振り向く。
「ついてないね、あんなのにちょっかい出されて。あー僕は別に
変な宗教とかの人間じゃなくて、ちゃんとした人間だよー。この先の」
「おせっかい」
少女から冷たく放たれた言葉に首を傾げる。
その姿を見る事なく、少女は何も言わずにその場を走り去ってしまった。
「師匠、襲ってきた妖異を勝手に退治するのって、 『おせっかい』
なんですかー?」
「……祀(まつる)はいつも突然だな……」
林道の奥にある、静かな空気に満ちた神社。
鮮やかな赤の鳥居のしたで、竹箒を動かしていた男性に近寄ると、
挨拶もせずにいきなりそう訊ねた。
振り向いた男性は苦笑して家に入るように促す。
仲野祀はこの神社で育ち、幼い頃から先ほどのような妖異を
視ることが出来たため、悪意あるものを祓ってきた過去を持つ。
だから今更妖異に驚いたりもせず、ましてばったりと出くわして
しまったとしても平然としていられるのだ。
悪意もなく、力の弱いものならばあっさり無視する度胸もある。
祀の話をあらかた聞いた、祀の育ての親でもあり師匠でもある
和泉(いずみ)は腕を組みながら唸る。
「人によってはおせっかいかもしれないな」
「どーしてですか?」
「誰しも理由があるものだろう、そう言うからには。祀がここで
妖退治をしているのも、彼女が妖異に狙われてしまうのにも」
「知ってるんですか、彼女?」
祀は目を丸くしながら、目の前でこたつに入ってくつろぐ和泉に問う。
和泉は湯飲みを傾けて、じじむさくズズズーッと音を立てながら
お茶を飲み、編み籠いっぱいにつまれた蜜柑に手を伸ばしつつ、
頷いて答える。
「結構有名だぞ。何でも人の過去視と先視が出来るんだと」
「あー。それはあいつらがもー欲しがりますね」
祀は納得して、こくこくと頷く。
一般人が聞けば羨むか怖がる所だろうが、ある意味で一般人では
ないせいか、祀は彼女の態度が当然だと思えた。
普通では持たない力、それも強い力を持っていると、その力を餌に
妖力を上げようとする妖異が周りをうろちょろしだすものだ。
彼女は何度も妖異に襲われ、人にも嫌煙されてきたのだろう。
だから助けた祀に投げた言葉が 『おせっかい』 。
蜜柑の白いスジを丁寧に丁寧に一本ずつ取っていく和泉に、
祀はひとまず声をかける。
「師匠、行ってきます」
「んー。氷張った水溜りで滑って転んだりするなよ。あと札も
ちゃんと補充していけ」
「ズボンのポケットに入ってます」
「お前こないだ、洗濯機に入れたろう」
「あ。」
はあっ、はあっ、と荒い息を繰り返す。
もうどれくらい走っていたのか――それすら少女は覚えていなかった。
冷たい空気が肺の中に浸透して、余計に身体をがくがくと
震えさせてくる。
きつく手を握り、唇を噛んで震えをやり過ごそうとする。
慎重に後ろを振り返り、何の音もしないことにようやく安堵した。
こんなもの、いらない。
捨てられるものならいつだって捨ててやるのに。
どうして――。
「……はあっ…はあっ……」
ふと、脳裏に先ほどの青年の姿が浮かぶ。
腰まで届きそうな長髪を高い所で一つに結い、暖かそうな毛糸の
マフラーとコートに身を包んで、化け物を倒す見たことのない力を
使っていた。
ならば、彼は自分とは違う力を持つ人間なのか。
「……ありがとうって、言うべき……だったのよね……あの時」
思わず 『おせっかい』 と口走ってしまったことに、
酷い自己嫌悪が襲ってくる。
今まで好奇心を持ったり怖がったりする人は多かったが、
実際に助けてくれた人などいなかったのだから。
「あーいたいた」
ガサリ、と音がして、はっと身構える。
茂みをかきわけて現れたのは化け物ではなく、思い出していた
青年だった。
その青年は近くで見てみると案外幼く、彼女と同じか、もう少し
上くらいの年齢に見えた。
けれど顔立ちや格好のせいで、年下に見えなくもない。
マフラーの奥で青年はにっこりと笑った。
「さっきは途中だったからね。僕は仲野祀っていって、この先にある
神社に住んでバイトしてるんだ。林の外まで送っていくね?
君は何ていうの?」
「……苑平(そのひら)、灯明(あかり)……」
悪意のない笑顔と問い。
なかば呆気にとられつつ灯明は答えた。
「って、違うわ。貴方、何でここにいるのかしら」
「追いかけてきたからだよ」
「そうじゃ、――っ!」
びくんっ、と灯明は全身を強張らせて目を見開く。
灯明の一変した様子に祀は首をかしげた。
笑う祀。なぎ倒される木々。透明な壁。燃える紙。
震える大地。飛ばされる紙。むかれるあぎと。
紅の吹雪。笑っている祀の――。
「灯明?」
視ていた世界から、灯明は強制的に引きずり戻される。
刹那の穏やかな世界に落ち着きかけていた心と身体が戦慄し、
逃げるようにして、灯明はまた走りだした。
いらない、いらない、こんな力はいらない――っ!
―― 一方。
二度も一人残されてしまい呆然とする祀の場には、
冷たく淋しい風がぴゅるる……と静かに拭きぬけていった。
「今度こそちゃんと話してきます」
「んー。頑張ってこい」
白菜を避けて鍋をつっつく和泉にそう宣言してから、すでに一週間。
祀は灯明が気にかかり、ずっと探していた。
とはいえ、灯明がどこに住んでいるかなどの情報を持っているわけでは
ないので、林の中、周辺、街などを歩き回っていたくらいなのだが。
ついには大晦日当日。
神社に住み込んでいるので忙しいと思い期や、実は参拝者などは
皆無に等しい。
それもこれも、和泉が人に対して好き嫌いが激しいからだと祀は思う。
「どーしたら見つかるかな……大晦日だからさすがに」
ふ、と視線を林の中に向ける。
「……あれ…かも」
歩き出して向かう先には、人ではない独特の暗いものがあった。
力を持つ者だけが感じられるそれは、気配ともオーラとも呼ばれている。
妖がまとうのは負、マイナスの気配。
「――っ来ないで!」
聞こえてきた声に、祀はだっと走り出す。
追い詰められた背を見つけ、腕を引いて自分の背に隠す。
「久しぶりだね、灯明。怪我とかしてない?」
「……どうして…貴方…が……」
「ん? ずっと灯明を探してたからだよ」
にっこりと祀が笑いかけると、信じられないものを見たように
灯明は驚いた。
満足げにそれを受け止めて祀は視線を前へと戻す。
突然の乱入者に苛立つ、赤色の犬か狼の風体をした妖異。
グルルと低く唸るたびに、ぬらりとした牙が見え隠れしている。
「キサ、マ……術士カ……喰ラウ……両方喰ラウ!」
「なーんだ。この間のより妖力はあると思ったのに」
祀はポケットから札を出す。
「その程度か」
「ホザケ……コノ、ウツケモノ……!」
飛びかかってくる妖異を避け、固まる灯明を木の後ろへと隠して
祀は微笑む。
牙で、爪で、鋭く祀を切り裂こうとするが、するすると避けてしまう
祀に攻撃はまったく当たらない。
余計に苛立ったのか、妖異は毛を逆立てて咆哮した。
あまりの声の張りに当たりの木々が薙ぎ倒される。
眉をひそめた祀は、さっと灯明の傍に寄った。
「かの者包め包め――護界陣」
金属がぶつかるような音を立てて、灯明の周りにだけ
透明の膜のような壁が出来る。
祀は手に持っていた札を壁に貼り付ける。
視たことのある “こうけい” に、灯明は息を呑んだ。
この後は――。
「かの者惑え惑え――幻界陣」
祀の投げた札を紙一重で避けきり、妖異は炎を吐いて札を燃やし尽くす。
「炎属性? 相性は悪いだろーけど…… かの者―― 」
新たな札を取り出して真言を唱えようとする祀に、妖異はさせまいと
勢いよく祀めがけて火炎を吐き出す。
せまる炎に祀は真言を中断して間一髪逃れる。
だが、続いた咆哮に大地が震え、手を滑らせて熱風に札を奪われた。
残念そうに溜息をつく祀の余裕に、妖異の怒りが増す。
「我ガ、内ニ……喰ラワレロ……!」
炎に、妖異の姿と気配がまぎれて本体を見失う。
「かの者狂え狂え――」
真言を唱える祀には、未だ炎に隠れた妖異の身は見つけられない。
揺れる炎を見据えて、神経を集中させて気配を捉えようと――。
「……上ぇえっ!」
高い声に、祀はとっさに後方へ飛ぶ。
まさに自分が立っていた場所に、あぎとをむく妖異が上空から
炎をまとって降ってきた。
祀を喰らいそこねた妖異は恨めしそうに唸る。
「――刀界陣っ!」
風にあおられる、まるで吹雪きのような紅の体毛。
呻き声を上げて消え行く妖異の姿。
灯明は思わず、その場に力なく座りこんだ。
祀に二度目に会った時――自分が視たものは未来の出来事だったはず。
今まで違えることは一度たりとてなかったというのに。
確かに上空から降ってきた妖異の牙で、青年は右腕を深く傷つけられ、
鮮血が炎と舞い、少女に笑いかけて、その身体は焼かれた大地に
崩れ落ちるはずだった。
――それなのに。
灯明がとっさに叫んだことで未来が変わってしまった。
崩れ落ちる運命になったのは祀ではなく。
「灯明」
優しい声に灯明はゆっくりと見上げる。
「行こーか。師匠なら灯明の過去視も先視も、軽減出来ると思うからさ」
「……たし……私っ……」
「一緒に行こ、灯明」
「――うんっ」
涙をこぼしながら、明灯は初めて差し伸べられた手を初めてとった。
――窓から見える月に目を留める。
目を細め、仏壇に蜜柑を供えて手を合わせた。
とてもお世話になった、人に対する好き嫌いの激しかった人に。
目を開いて時計を見た。
今日はいつもより帰りが少し遅いようだ。
何かあったのだろうか。
だとしても、すぐに終わらせるだろう。
そろそろ夕飯んを温めておいた方がいいかもしれない。
こたつでうとうとしている赤ん坊に笑みを浮かべ。
「ただいまー」
声で目覚めた赤ん坊を抱いて玄関に向かい、首を傾げる。
「後のこと考えないで助けちゃった」
青年をかついでそう言う夫の姿にくすりと笑う。
「あらあら、部屋が必要かしら? 祀さん」
「ぱぁぱ?」
「頼むよ、灯明」
「ふふ……はいはい」
END.